こんにちは、タケヨーです。
先日ネットニュースへ掲題の様な記事が掲載されており、個人的に凄く驚いたことと身の上話と共に思うことを記述させて頂きます。
記事へ掲載の通り、「オデッセイ」に加えて「レジェンド」と「クラリティ(PHEV&FCV)」を2021年内を以て国内生産終了、更に生産車が無くなり次第販売終了と明記されていました。
また、加えて埼玉県の狭山工場も閉鎖することで決定しており、狭山工場の閉鎖にも要因があるとの報道です。
本田技研の思い出
以前何かの機会で記述した通り、実父は高卒で本田技研へ入社→生産ラインのライン工一筋で、数年前に早期退職にて同社を去りました。
実父はホンダ技研狭山工場へ18歳〜通い続けていた為、結婚・出産・マイホームの購入後もずーっと狭山工場勤務が変わらず、私と弟は「本田技研」が身近にある環境下で育ちました。
父曰く昇進や転勤の機会も在籍中に提示があったらしいですのが、「敢えて蹴った」という様なニュアンスの発言を以前に聞いたことが有りました。
マイホームを買ったこと・実母(私から見れば父方の祖母)が要介護だった為地元から離れられない理由があったこと、が主な理由らしかったです。
現世間の風潮と異なり、そういったサラリーマンで半ば命令されるような機会は、父が現役当時だった環境を考えると今よりも更に圧力が強かったと想像出来ます。
それを敢えて跳ね除けて、家族との行動を優先した父は別の意味でやはり今でも尊敬出来ます。
とまぁ、兎に角狭山工場へずーっと通っていたので、当然狭山工場で年に1回開催される近隣の地域住民・社員向けのお祭りにも度々連れていって貰えました。
今もお祭りを行えているのかは分かりませんが、子供には凄く良いものでした。
また、小学校の社会科見学で企業の施設見学といえば決まって「本田技研狭山工場」か、隣の「ロッテ狭山工場」というのが当時はベターでしたので、学校へ行ってもなんやかんやでホンダへ行く・プライベートでも年に1回はホンダへ行くという日常と隣にある会社といった印象を子供ながらに抱いていました。
マイカーもホンダ車・高卒と同時に購入したバイクもホンダ車・専門学校もホンダ系列
先にも記述した様に実家はホンダを中心に組み立てられ、回っていました。
当然の様にマイカーはホンダ車でしたし、父の通勤用原付バイクもホンダ(Live Dio,2スト)、私が高卒と同時に購入した中型バイクもホンダ車(CB400SF)でしたし、自動車整備士を取得する為に入学した学校もホンダの専門学校でした。
専門学校在籍中に就職先が決まるまでは漠然と「このままホンダのディーラーへ勤務するのだろうな…」と思っていましたが、当時は就職氷河期が漸く融解し始めるか否かの絶賛就職困難な時世でしたので、ふとした理由から「脱ホンダ」へと私は進んでいきました。
実際にホンダのディーラーではなく、外車の正規ディーラーへの就職が決まった時、何か悪いことをしている様な気分でしたし、それでも父からは「良いとも悪い」とも言われなかった記憶があります。
狭山工場と父
父は前述の通り新卒で本田技研へ入社以降、ずーっと狭山工場勤務でした。
バブル期に短期間だけ栃木の生産工場へNSXの増産で駆り出されて数ヶ月出張というのは有りましたが、以降も私が就職してからしばらくは狭山工場へ通っていました。
生産ラインでは本人曰く主要の生産ラインに配属されていたらしく、喜々として語っていたことをいつも思い出します。
その主要生産ラインがまさしく掲題の「オデッセイ」や「レジェンド」を組み立てる生産ラインでした。
車の生産工場を知る人であれば本田技研狭山工場は、変わった構造と眼に写ります。
通常、生産工場というは効率の観点から「なるべく直線となるように立地」が定石です。
これはフォードが1900年代に作り上げた定石で「T型フォード」の増産を計画すべく手掛けた手法、となります。
ところが同工場の生産ラインは2〜3階建てという当時としては珍しい生産工程ラインを有していました。
しかも生産ラインは通常流れてくる車両が効率の観点から、ある程度固定となります。
ここでも前述同様に他の生産工場とは一線を画しているらしく、父が勤めていた時には十数の車種やレパートリー(出荷国向けの仕様違い)での生産をこなしていた様でした。
自分が行っている仕事に誇りを持って臨んでいたのだな、とあまり多くを語らない父から息子なりに感じ取った想いでした。
そんな父にも転機が訪れます。
年齢には抗えない「職掌転換」です。
55歳を超えた父・本田技研として狭山工場→寄居工場へ業務移管といった流れが重なり、散々の抵抗虚しく寄居工場へ転籍となってしまいました。
しかも職掌も強制的に転換させられ、それまでライン工として自分なりに誇りを持って取り組んできた業務→部品をフォークリフトで運搬する役目へと移されてしまいました。
「フォークリフトで部品を運搬する役目」だって立派な仕事です。
ですが父にとっては「ラインで車両生産に携わること」が全てでしたし、なんだかんだいって本田宗一郎のモノづくりマインドが醸成されていた世代でしたので、父なりに受け入れ難かったのでしょう。
※本田宗一郎は何度も工場見学の際にあったとのことでした。「何でトイレがここにないのか。生産ラインの従業員が困るし、効率が悪いだろう」と本田宗一郎が発言した数週間後に、速やかにトイレが増設されたということをはじめ、様々な伝説が語り継がれている凄い人と共に時代を歩まれたのでしょう。
3年程は寄居工場へ頑張って通っていましたが(往復2時間の通勤路)、生産ラインを外れたこと・慣れない長時間通勤が経たり、本人的にも精神的に参ったらしく早期退職にて本田技研を去ることになりました。
はしごを途中から外す会社
仕事のことについて多くを語らず文句も言わない父でしたが、ふとした時にだけ愚痴をこぼしたことが有りました。
同社は「はしごを途中から外す会社」だと。
確かに世間へはいつもあっと言わせる・思わせる発表や出来事をポジティブ・ネガティブに関わらず発信する会社と映ります。
ですがカスタマーではなくステークホルダー側の視点に立つと、何かと振り回されてきたという印象を拭えないのかも知れません。
オデッセイ・レジェンド・クラリティの生産終了、父の職掌転換…その他にも色々あったと思います。
何せ新卒〜早期退職するまでここの職場・会社しか知らないのですから、父は。
家族のため・自分のため、と毎日色々と葛藤してきたことと思います…
狭山工場のその後
狭山工場については、ちょっと古い記事ではありますが既に完全閉鎖が決まっています。
私達家族にとってみても一つの終止符であり、ターニングポイントでもあります。
私達だけでは有りません。
地域の近隣住民・行政にとっても大きな節目です。
狭山工場の周辺には当然、関連の子会社・孫請も複数有りますので、どうするのかな?と自身なりに思っています。
また、埼玉県狭山市としても税収の観点から見るとかなりの痛手だと思います。
狭山工場閉鎖とか、減産・生産終了というニュースを聞く度に、少し寂しいと共に時代が変わりつつあるのだなと自身なりに感じています。
父は正に昭和スタイルで、酒が無いなら仕事へ行かないタチでしたので、そういった昭和スタイルの人種が職場から自然減となっていくのは、別の意味でも中々感慨深いものと私は思っています。